プチ小説「こんにちは、N先生 62」

12月に母親が消化器外科疾患の手術を受けて私はしばしば医大病院へ付き添いで行くのですが、本日も朝から医大病院に行き特に問題がないので6ヶ月後にまた受診してくださいと言われました。その後、母親が、髪の毛が伸びて来たので、カットと顔剃りのため病院内の散髪屋に行きたいと言いました。私が母親を散髪屋に連れて行き、カットをしている女性に、どのくらいで終わりますかと尋ねると40分位ですと言われました。私は、その頃になったらここに来るからと言ってその場を離れました。母親が昼食は家に帰ってから自分で作ると言ったので、私は、コンビニでおにぎりと焼き鳥を買って、飲食コーナーで食べることにしました。しばらくするとそこにN先生がやって来て、やあ、元気かいと言って隣に座りました。
「先生、先生とは一昨日お会いしているのですが、それから変わりはないです」
「君は間を開けずにぼくが現れたので不思議に思っているようだが、ただぼくは『花実のない森』を君が読み終えたから、それの感想を聞こうと思って現れただけだよ」
「そうですか、それではこの本を読んで私が感じたことを率直に述べてみます。この本を読んで最初に思ったのは、以前読んだ『渦』という松本清張の小説に似ている気がしました。『渦』は視聴率調査に関係する人たちの間に起きた事件を素人探偵の喫茶店の店主小山修三が上司の命令で一緒に調査をすることになった女性と仲良く探偵のマネをするのですが、やっていることが的外れで一緒に調べてくれる女性が怪しいと疑ったりする。結局、女性の上司から、君がやっていることは的外れだと窘められるという小説ですが、『花実のない森』の主人公の梅木隆介も小山に似たところがあります」
「どんなところかな」
「とにかく真実を究明しようとしてあたりのこと、先にどうなるかを考えずに女性の正体などを調査する(質問する)ことです。長い抜粋になりますが、以下の箇所を読んでいただくと、彼の素人探偵(彼の本業は小さな商事会社の社員)が行き過ぎと言うことがよくわかると思います。梅木は、以前一度訪問してしぶしぶ質問に答えてもらった山辺菊子夫人(年齢60 元イタリア大使夫人 先々代は維新の功労者)を再訪して自分の質問に答えるようにと迫りますが、ここでまたしても夫人から強い拒絶反応が示されます。
「「帰ってください。もう我慢がなりません」
  梅木は、椅子から立ちあがった。が、彼はそのまま動かないで山辺菊子を見下ろした。菊子も憎しみをこめた眼で彼を見上げている。二人の眼が、瞬間、そこで合った。梅木の視線は攻撃的になっていた。
  菊子は、ふくよかな頬を窓際の偏光に浮きあがらせている。彼女の皮膚は、絹のように密度があった。
  不思議なことに、凝視の途中から突然、思いも寄らない衝動が梅木に突きあげてきた。この年齢の女にかつて覚えたことのない情欲だ。菊子はまだ憎しみの眼を梅木の顔から放さない。その細い顎の下に白い咽喉があった。高価な着物につつまれた胸のふくらみが、彼の眼にさらされていた。うすい銀髪が彼女の硬い髪にまじっている。
  梅木は、菊子の傍らに近づいた。彼女の顔が、恐怖で歪む前に、梅木は、彼女の身体に自分の上半身を倒していた。その首筋を抱えこむと、あっけにとられて無防備になっている女の唇に自分の唇をおしつけた。
 「何をなさるんです?」
  と、菊子は男の唇が離れてからあえいで言った。恐怖の眼は、複雑な感情が移入されて混乱していた。
 「奥さん」
  と、梅木は、その菊子の指を握ったままひざまずいた。
 「奥さんのような身分の高い女性は、ぼくらの憧れです」
  と、彼は言った。」
この抜粋でもわかるように、梅木は多分30才位の会社員だと思いますが、真実の解明のためなら何でもします。会社で仕事はしていますが、謎の女性のことを知るためにあちこち出掛けたり、恋人にホテルのメイドをして目的の人物がホテルに来たら報告してくれとと頼んだりします。その女性の追っかけを始めた切っ掛けもただ車の中に置き忘れたペンダントを渡すことでしたが、それがエスカレートしてもっと親しくしたい、今つき合っている人の後釜にしたいと変わってきます」
「そこまでその女性が際立って美しかったのかな」
「梅木は知的で品がよく素人っぽい清純さがある、今つき合っている恋人にないものがあると最初はそのように思っていただけかもしれませんが、山辺夫人ともう一人の怪しい男性楠尾英通に謎の女性のことを問い合わせているうちに抵抗にあって手の届かない女神のような女性へと心の中で進化していった感じです」
「上流階級の人たちが集まるデザイナーの新作発表会にたまたまこの3人が出席していて、その写真が載っている記事を梅木がたまたま見たため、梅木はそれを頼りに謎の女性の正体を知るために面識も何もない、山辺と楠尾に突撃して質問をしたり先に行ったように山辺夫人に警察沙汰になりかねないような危ない訪問をしたわけだが、成果はあったんだろうか。それとつき合っている恋人にメイドをさせて成果はあったんだろうか」
「成果があって、3つの事件に(ひとつは自殺となっています)謎の女性みゆきと楠尾がかかわっていること、みゆきは山口県岩国に住んでいて2ヶ月に一度不安定な状態になり男を誘惑するということが分かってきます。でもその過程が流れるように進行し梅木は物凄い実力派の名探偵のような活躍(推理)を繰り広げます」
「ちょっと不気味なところもあっただろ」
「そうです、梅木はみゆきの夫に会いますが、一見して60才位に見え、そうするとみゆきの実際の年齢もそのくらいかと思い、何か超自然の力を持った女性なのか、もしかしたら幽霊なのかと思いますが、夫が、「家内は私と反対に、実際の年齢よりも十は若く見えます。知らない人は父娘とまちがえました」とか「(略)今から二十年前、私たちは結婚しましたが、みゆきはある旧華族の娘でした。当時、家内は十六才でございました」というところから判断するとこの時みゆきは36才ですが、10才若く見えるのですから、パッと見は26才ということで梅木が年齢的にも自分にふさわしいと思ったのかもしれません。そうして梅木は東京に戻ったみゆきを追うのですが、梅木の思うようにならない悲惨な結末で終わります。まるでイリュージョンを見ているような気分になりました」
「松本清張は極めてたくさんの長編小説を書いたのだから、細部でわかりにくいところがたまにあるが、ポイントは押さえているので安心して続けて読める。だから少々無茶なところも我慢できる。すべて『点と線』『ゼロの焦点』『眼の壁』『砂の器』のような完成された小説なら申し分ないんだが、この『花実のない森』も最後まで一気に読ませる面白い小説と言えるんじゃないかな。君も2日で読み終えたんだから」
「そうです、遅読の私でも2日で読み終えてしまったんですから、早い人ならはらはらドキドキしながら1日で読み終えると思います」