『イーリアス』について
私は呉茂一訳のホメロスをいつか読みたいと考えていましたが、いつしか『イーリアス』と『オデュッセイア』の岩波文庫は書店で見られなくなり、古書店で見るのは筑摩書房や河出書房の『イーリアス』と『オデュッセイア』が1冊になった3段組のハードカバーばかりになりました。以前、スターン『トリストラム・シャンディ』とリチャードソン『パミラ』が一冊になった筑摩書房のハードカバーを読んだことがあり、携帯にも不便な700ページ以上ある3段組の本は通勤電車では読みたくないと思ったものでした。そんなこともあって、『イーリアス』と『オデュッセイア』は読みたいと思ってから45年以上が経過していました。それでも65才になると700ページで3段組のハードカバーを持ち歩くのも難しくなるだけでなくページ数が多い本も間もなく読めなくなるのではないかと思い、何とか携帯しやすい本を購入してかつて読みたいと思った本を出来るだけ読んで行こうと思いました。『オデュッセイア』はハードカバーですが、1巻2段組で手頃な大きさだったため、岩波文庫ではなく集英社世界文学全集を購入しました。『オデュッセイア』はそれほど苦労しなくて読めたのでもっと早く読んでおけば良かったと思いました。でも『イーリアス』(岩波文庫)は物語が混沌としていて、名前、地名がたくさん出て来るので読み進めるのに苦労しました。はっきり言って、岩波文庫上中下巻の下巻(第16章から第24章まで)は普通の小説のように読めますが、そこに至るまでは混沌としていて正直言って何が書いてあるのかよくわかりませんでした。イーリアスとはトロイのことでトロイ戦争を描いた英雄叙事詩で主人公はアキレウスと言われますが、第15章まではたまにトロイ戦争の対決のシーンがあったりアキレウス、ヘクトール、アガメムノン、メネラウス、アイアース、パリスがたまに顔を出すだけで小説を読んでいるという感じがしませんでした。それでここでは以前読んだ人文書院のギリシア悲劇全集や映画「トロイ」で足りないところを補いながら感想文を書いてみたいと思います。
第1章(呉茂一訳では第1書となっています)の最初にアガメムノンとアキレウスが仲たがいしたとあります。この原因はアキレウスと結婚するはずだったアガメムノンの娘イピゲネイアが生贄となり結婚できなかったからと思われますが、なぜ生贄になったかと言えば、トロイ戦争へと出撃する船が風が吹かず出航できなかったためです。そうなったのはアガメムノンが暴言でアルテミスの怒りを買ってしまい風を止められてしまったからですが、短気な性格とは言え神様を怒らせたり、自分の娘をすぐに生贄にしてしまうのはどうかと思います。こうしたアガメムノンの行動は妻クリュタイムネストラの怒りを買い情夫アイギストスとによりトロイ戦争が終わってすぐに殺害されます。その敵をアガメムノンとクリュタイムネストラの息子オレステスがうつというこのあたりのことがギリシア悲劇の題材になりますが、物語が複雑で夫婦肉親の愛憎が原因で感情を爆発させるところが随所にあるので後世の劇作家が悲劇にしたのだと思います。アガメムノンはブリセイスをめぐってアキレウスと対立し、映画「トロイ」ではブリセイスを救うためにアキレウスがトロイの木馬に乗って城内に入り、弱点のアキレス腱をパリスに弓で討たれ瀕死の状態になりパリスにとどめを刺されますが、このブリセイスを巡っての争いがアガメムノンとの不仲に拍車をかけたのかもしれません。
第15章に至るまでに第3章にパリスとメネラオスの一騎打ち(トロイ戦争の発端はトロイの王プリアモスの次男パリスがスパルタ王メネラオスの妻ヘレナを奪って帰国し、メネラオスが兄のミュケーナイ王アガメムノンに相談したことから始まったと言われています。そう言ったことがあったので、映画「トロイ」ではパリスが名誉回復のためにメネラオスと闘い殺されそうになるシーンがありますが、なぜかここでヘクトールがメネラオスを殺害してしまい史実と異なる(メネラオスはトロイの木馬に乗っていたとされています)展開になっています) ヘクトールとアイアースの一騎打ちなど英雄の闘いのシーンがありますがそれ以外はたくさんの武夫の名前と地名が列記され物語は展開していきません。そうしてようやく第15章で、ゼウス、アポローン、アテーネーなどの神々が集まって会議が持たれ、トロイ戦争をどのように終わらせるか検討されるのです。そうして第16章以降は、アキレウスの鎧を付けたバトロクロスの活躍 → ヘクトールにバトロクロスが殺害される → 友人のバトロクロスが殺害されたことをアキレウスが知り激怒する → ヘクトールに味方するボイポス(光明神 輝く者)・アポローンとアキレウスに味方するパラス・アテーネーの闘いがあるが、二人は神に守られていて死ぬことはない → アキレウスがヘクトールを討ち倒す → アキレウスは親友バトロクロスを殺害したヘクトールが許せない。ヘクトールの遺体に怒りをぶつける → 神々が仲裁に入りヘクトールの遺体を父親のプリアモスが引取り無事葬儀(火葬)が執り行われる というふうに展開して行くのです。第16章辺りからアキレウスが主役となって英雄叙事詩を盛り上げて行きますが、アキレウスは清廉なイメージではなくどちらかと言うと精力的攻撃的で、暗い悩みが多い人物で、『イーリアス』の最後のところはアキレウスに殺害されたトロイの英雄ヘクトールの葬儀で終わりますが、第23章でアキレウスは友人バトロクロスの亡霊に、「アキレウスよ、(お前は)裕福なトロイエー人らの城壁の下で死ぬとの運命が決められている」と言われます。そのため『イーリアス』にはアキレウスの死の場面はありませんが、映画「トロイ」では先に述べたように、パリスがアキレウスに矢を放ちアキレス腱を負傷し致命傷になるということになっています。
このように見ると、『イーリアス』を読むためには、『オデュッセイア』だけでなくギリシア悲劇のアガメムノンが登場するものそれから映画「トロイ」を見ておくことは必須となります。その代わりにギリシア神話について書かれた本を読んでもいいと思いますが、『イーリアス』だけを読んでこの英雄叙事詩を理解するのは極めて困難なことと言えるでしょう。